信頼と不信の哲学入門/キャサリン・ホーリー 書籍紹介

生きていく上で欠かせない「信頼」
「信頼」とは、私たちが生きていく上で欠かせないものであり、また常に悩ましい問題です。
信頼される人間でありたい。果たしてこの人を信頼しても良いのだろうか?プロジェクトを成功させるためにはチームの信頼関係が欠かせない。信頼したのに裏切られた。自分のことを信頼できない人間だと言われてしまった。
このような「信頼」という人間社会の中で重要かつ悩ましい問題について、哲学者であるキャサリン・ホーリーは「信頼とは何か?」を考察していきます。
この本がどのような論理を展開しているか?「信頼」にまつわる論点を3つ紹介します。
1つ目、信頼は「コミットメント」と関係している
2つ目、「信頼」と「不信」の関係
3つ目、信頼には「能力」と「誠実さ」という2つの要素がある
この3つを説明していきたいと思います
信頼はコミットメントに関係している
哲学の世界で信頼を論じる時、「信頼」に対して「依拠(あてにしている)」という概念を使います。「依拠している」とは、例えば、カーテンは寒さや光を遮ってくれるのだと、“あてに”しています。カーテンが破れてしまって役割を果たせなくなっても、がっかりする事はあっても、カーテンに裏切られたと感じる事はありません。
物に「依拠」して失敗すれば、残念に思うだけですが、人を「信頼」して失敗した時は、誰でも裏切られたという怒りの感情や、大きな失望を覚える事でしょう。
通説では、「信頼」と「依拠」を分けるものは「善意」だとされてきました。信頼を裏切られた時に感じる怒りは、“道徳的な感情”に基づいていると言う事です。
しかし、ホーリーは「信頼」と「依拠」を分けるものは「善意」ではなく、「コミットメント」だという説を唱えました。コミットメントとは「責任をともなう積極的な関与」です。
「信頼」と「不信」の関係
友人をパーティーに誘った時、友人に他の約束があってパーティーに来れないと言った場合。それでも友人は必ずパーティーに来てくれると「信頼」することも無いし、パーティーに来れないというだけで「不信」を抱くわけではない。友人は自分に対して、事情をきちんと説明してくれているのだから。
屁理屈のように思うかもしれませんが、このような「信頼しているわけでも、不信を抱いているわけでもない」という場合はよくあります。
友人は「善意」をもって接してくれますが、「コミットメント(責任をともなう積極的な関与)」はしていません。
「コミットメント説」の立場に立てば、「信頼している」と「不信を抱いてる」の二項対立は成り立たないのです。
信頼には「能力」と「誠実さ」という2つの要素がある
コミットメントを果たすためには「能力」と「誠実さ」という2つの要素が大きく関わってきます。
相手の期待に応えるには、それを達成するための「能力」が必要とされます。一方で、期待に応えるための「能力」を持っていたとしても、それを確実に実行するための「誠実さ」を欠いていれば、コミットメントを果たすことができません。
しかし、相手がコミットメントを果たす「能力」と「誠実さ」を持っているかを判断するのは難しいことです。そして、自分が「誠実」に期待に応えようとしても、自分の「能力」を過大評価して失敗し、相手に不信を抱かれてしまうこともあるのです。
コミットメントを果たす「能力」と「誠実さ」を見極めるためには、現代の社会はあまりにも複雑な要素が多いです。
それゆえに、相手を適切に「信頼」したり「不信」抱くことは、大きな困難を伴うのです。
多くの実例と、様々な学問分野から「信頼」を考える
この本では、様々な観点から「信頼」について考えます。進化生物学、経済学の観点から。科学知識への信頼、国家・団体・制度への信頼と、人間同士の信頼関係と何が異なるのか?そして、昨今より身近で深刻な問題になっているインターネット上の信頼、陰謀論と信頼の関係など多面的に「信頼」について考察します。
「信頼」というものは人が生きる上で必要不可欠でありながら、明確に「信頼とは○○だ!」とは言いにくいものです。
本書では、明確に「○○だ!」と断言していませんが(哲学とは絶対的な答えを出すものではありません!)、多彩なアプローチで徹底的に考える事で、私たちが生きる上で有用なヒントを与えてくれると思います。
書籍紹介:具体と抽象 世界が変わって見える知性のしくみ/細谷功【著】

どんな本?ー「わかりやすさ」の時代に、あえて「抽象化」して考えるー
著者の細谷功さんはビジネスコンサルタントであり、「思考力」をテーマにした執筆や講演活動をされている方です。
今の世の中は「わかりやすさ」が求められる時代です。ネット上には、わかりやすさを重視して解説する動画や記事が多くアップされ、書店では「わかりやすい○○」といった本が多く並んでいます。政治家にも経営者にも「わかりやすい説明」が求められます。
細谷さんは、「わかりやすさ」が求められるのは「成熟期」に入った社会や組織だと言います。しかし、どんな社会や組織も「衰退期」に突入し、「世代交代」という大きな変化が求められる時期が来ます。
そんな変革期に必要な知的能力こそ「抽象概念を扱うこと」です。具体性が重要視される「わかりやすさの時代」には、この「抽象化して思考する能力」が退化してしまうのです。
本書では、そのような「抽象」を扱う方法を、「具体」との対比で「わかりやすく」解説しています。
「抽象度」というのは、世の中をとらえる「共通の物差し」です。この物差しが日常的に使われるようになることで、社会や組織がスムーズに運営されるようになるのではないかというのが、本書の趣旨です。
本書は二つのタイプの読者を想定している
まず、抽象概念を扱う思考力を高めて、発想力や理解力を向上させたいと思う「具体レベルの世界」で物事を見ている人です。そのような人は「具体と抽象」の仕組みを理解し、その応用の仕方を学ぶことができます。
もう一つの対象層は、周囲の「具体レベルのみに生きている人」とのコミュニケーションギャップに悩んでいる人です。具体の世界しか見えていない人と、「抽象の世界」を見えている人が意思疎通することは、不可能といえるほどです。そのような読者に対して、コミュニケーションを阻害するメカニズムを明らかにし、改善のヒントを提案します。
私がこの本を選んだ理由
私は昔から、哲学などの思想系の本や、小説ではエンタメより人文系のものをよく選んできましたが、最近では、その延長線上で思考法を扱った本も多く読むようになってきました。
本書「具体と抽象」も思考法の本だと思い手に取ってみました。実際、思考法の本ではあるのですが、どちらかというとビジネス向けに書かれた本でした。
しかし、本書を読み進めていくと、確かに自分が仕事や日常のなかで「なんだか話が通じていないな…」と感じたことが、身につまされるように思い出されてきました。
本書は二つのタイプの読者を想定していると先ほど説明しましたが、私はどうやら後者の「”具体の世界しか見えていない人”とのコミュケーションギャップに悩んでいる」タイプの人間に当たるようです。
今このブログを読んでいる方の中にも、そのような「どうやら話が通じていないな…」という経験をしたことがあるのではないでしょうか。
本書は、”意思疎通が出来ていないメカニズム”を明らかにしようとする本です。この本を読んでいただければ、コミュニケーションのモヤモヤを晴らすことができるかもしれません。
まとめ
「言いたいことが伝わっていないな、どうして伝わらないんだろう?」と思ったり、逆に「あの人は、わかりにくい言い方ばかりして、何を言っているんだろう?」と思った経験はだれにでもあると思います。
だからこそ、この本は多くの人を対象としているんだと思います。実際に、この書籍が出版されたのが2014年ですから10年読み継がれているわけです。私が読んだのも2024年に発行された第30刷のものでした。
この書籍紹介を読んで興味を持たれた方は、ぜひ本書を手に取って読んでいただきたいと思います。
Amazonリンク
Amazon.co.jp: 具体と抽象 ―世界が変わって見える知性のしくみ : 細谷 功: 本
書籍紹介:「利他」とは何か?/伊藤亜紗・編(集英社新書)

どんな本?
この書籍が発刊されたのは2021年3月。コロナウイルスの第3波の頃。ワクチンの接種が始まる少し前です。
コロナ禍の中で「利他」の機運が広がりました。具体的には、10万円の特別定額給付金を寄付に使いたいという若い世代が多かったこと。(「10万円特別定額給付金に関する調査」コロナ給付金寄付プロジェクト、2020年6月調べ)クラウドファンディングが普及した事などです。
コロナ禍以外でも、ファッション業界は「世界で第2位の汚染産業」(国連貿易開発会議)と言われました。そして、発展途上国での劣悪な労働環境や、衣服の生産の過程で起こる自然環境の汚染への問題意識が高まっています。
このように近年、「利他」という考え方が注目を集めています。
しかし、利他の考え方に潜む危険性や問題意識を、この本は指摘します。
「利他」がはらむ危険性。その問題とは?
「利他」のはらむ危険性、その最大のものは「押し付け」になってしまうと言う事です。
「人助け」をした人に「せっかくやってあげたに!」と言われて、腑に落ちないモヤモヤしたものを感じたこと。私も何度か経験していますが、同じように思った人は少なくないと思います。
この本は5人の研究者がそれぞれの視点から「利他」を論じた共著です。
美学者でこの本の編者である伊藤亜紗さん。政治学者の中島岳志さん。批評家で随筆家の若松英輔さん。哲学者の國分功一郎さん。小説家の磯崎憲一郎さん。
この5人は東京工業大学の中にある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」のメンバーで、日々、「「利他」とは何か?」について意見交換をし議論しているとのことです。
5人に共通する「利他」の考え方
まず、「利他」とは、個人が意図的に行うものではないと言う事です。
これは先ほど述べた「押し付け」にもつながる問題です。強い言葉になってしまいますが、時にはその行動が「害悪」にもなってしまいます。
では、「本当の利他」とは何か?
それは個人の意図とは全く関係ないもの、「つい自然と体が動いてしまう」行為です。少し宗教的な言い方をすれば、人間には計り知れない存在から「やってくるもの」です。
伊藤亜紗さんは、お年寄りや障がい者の介護など「ケア」現場での経験から語ります。そこで結論したのは、「利他」とは、どんなものでも享け入れる「うつわ」のようなものだと言う事。
中島岳志さんは、人類学における「贈与」の問題から、自身のインドでの経験、親鸞の「他力」の考え方を語りながら、人間を超えた存在から“やってくる”「利他」の行動を語ります。
若松英輔さんは、大正・昭和の時代に活躍した思想家で「民藝運動」の提唱者の柳宗悦の思想に「利他」の心を見出します。そして、柳は「利他」という言葉を決して使わなかったことも注目に値します。
國分功一郎さんは、近年使われるようになった「自己責任」という言葉を、古代ギリシャの「中動態」という考え方から出発して、「責任」の概念をアップデートすることを試みます。
磯崎憲一郎さんは、自身のルーツになった小説に触れながら、自分の意図しないところで影響を受けていたと語ります。知らず知らずのうちに、先人の作家から受け継いだものがあるという事実に「利他」を見い出します。
「利他」は実践できない?
「利他」は自分の意図しないところからやってくる。人知の及ばないところからやってくるならば、「利他」は実践できないという事なのでしょうか?
しかし、出来ることがあるとすれば、それは目の前の人に向き合う事。社会や自然環境も含めた世界と真正面から向き合うことかも知れないと、私は思います。
それでも、自分が「利他」からほど遠いエゴイスティックな行動をするかもしれません。いい加減な生活を送っていたとしても、何かに突き動かされ、思わず「利他」的な行動をするかもしれない。
自分が後ろ指さされる酷い人間になってしまったとしても、ただそれを受け入れること。今の時点では、私は「利他」について、そんなことを考えています。
YouTubeにアップロードされている「利他ラジオ」では、本書を書いた5人のメンバーが雑談のようにリラックスした雰囲気で「利他」について議論をしている様子を聞くことが出来ます。
本書と合わせて「利他ラジオ」を聞いて「利他」について考えてみてはいかがでしょうか。
「利他ラジオ」リンク
書籍リンク
書籍紹介:14歳からの社会学ーこれから社会を生きる君に/宮台真司

宮台真司には珍しい優しい語り口
この本が発売されたのは2008年、僕が大学生だったころですが、「14歳からの〜」のタイトルから「読まなくても良いか」と判断しました。しかし、それは大きな間違いでした。
私は、この本の出版から10年くらい後にたまたま古本屋で見つけて読みましたが、とても引き込まれました。
次世代を生きる若者に向けて書かれた本ですが、大人が読んでも有意義で十分に読み応えのある内容です。
宮台真司と言えば、年長世代では「朝まで生テレビ」で舌鋒鋭く議論していた姿、最近ではネット番組での歯に衣着せぬ物言いなど、挑発的でアグレッシブな印象を持っている人も多いかも知れません。しかし、この本の優しく諭すような口調は、人によっては意外だったり、新鮮な印象を受けるかもしれません。
私が宮台真司を意識したのは、高校時代に友人に本を薦められたからでした。読みながら自分の思考がぐるぐるフル回転するような読書体験で、「こんなに核心を突いた批評をする人がいるんだ」と驚きました。
彼の論評は、レトリックや社会学や哲学などの専門的な用語が出てくるので、興味深く読む人と、良く分からないと離れていってしまう人の両極に分かれていくかもしれません。
そんな宮台真司がなぜ、10代向けに本を書いたのか?
宮台さんの長女が2歳だったころ、知り合いの編集者の方から熱心にすすめられた事が理由だそうです。
冒頭でも触れましたが、私が「14歳からの社会学」を読んだのは、30歳くらいの頃で、本のタイトルの倍くらいの年齢でした。
「読むのが遅かった!」と後悔すると同時に、「この本を読んで本当に良かった!」と心の底から思いました。社会に対して抱いていたモヤモヤがくっきりとした輪郭を持ち、視界がクリアになったように感じたからです。
本の内容
それでは、この本の内容に少し触れたいと思います。
7つの章立て
この本の章立ては、以下のようになっています。
①〈自分)と〈他人〉 「みんな仲良し」じゃ生きられない
②〈社会〉と〈ルール〉 「決まりごと」ってなんであるんだ?
③〈こころ〉と〈からだ〉 「恋愛」と「性」について考えよう
④〈理想〉と〈現実〉 君が将来就く「仕事」と「生活」について
⑤〈本物〉と〈ニセ物〉 「本物」と「ニセ物」と見分ける力をつける
⑥〈生〉と〈死〉 「死」ってどういうこと?「生きる」って?
⑦〈自由〉への挑戦 本当の「自由」って手に入るのか?
この本のテーマを私なりに3つに分けると、“共同体と公共性”、“誰と何をして生きるか”、“そもそも〈世界〉はどうなっているか?”になると思います。
1、2章は、“共同体と公共性”
高度経済成長以前の昭和30年代は、地域のコミュニティが機能していました。お隣さんは誰々でどういう人か?とか、地域にどういう人がいるか?という情報が共有されていたわけです。サザエさんで描かれている“世間”というのをイメージしてみると、分かりやすいと思います。
この時代は「みんな仲良し」がホンネとして共有されていました。しかし、今は「隣の人は何する人ぞ」が当たり前の時代。『「みんな」とは誰か?』が共有されていないわけです。人によっては、そもそも『「みんな」という考え方が存在しない』、『“自分”しかない』人もいるのです。
そのようにコミュニティが機能していないと、『「自己の尊厳」(「失敗しても大丈夫」感)』が保たれなくなり、『他者からの「承認」』が得られずに、心が病んでいくわけです。例えば、「メンヘラ」「ひきこもり」などです。最悪の場合は、個人による無差別殺傷事件などにつながっていきます。
3、4、5章は、“誰と何をして生きるか?”
あまり説明が長くなると良くないので、『③〈こころ〉と〈からだ〉 「恋愛」と「性」について考えよう』について説明します。
今の時代は、恋愛に期待できない時代です。
男なら「リアルよりアニメやゲームの女の子でいいじゃん」「彼女はいても、心は非モテ」、女なら「男の子とつき合っても、束縛男やモラハラ男」「性体験の数は増えるけど、恋愛経験値は低い」といった人たちが多くいます。
このような期待できない現実でも、「深い絆で結ばれた、性愛関係を築きたい」という願望はあります。
しかし、現実への「期待水準」は下がり、それに引きずられて“こうありたい”という「願望水準」も下がります。こうして、「期待水準」も「願望水準」も下がり続ける負のスパイラルに陥るのです。
では、どうすれば良いか?人を『入替え可能な「記号」』ではなく『入替え不可能な「固有名詞」』として見ることです。「この女(男)でなくても、他の誰でもいい」ではなく「信頼で結ばれた、他の誰でもない“あなた”」との関係を築くのです。
そのための方法として、恋愛においては「期待水準」と「願望水準」を切り分けることを宮台さんは勧めます。しかし、恋愛に限らない「人間に対する期待水準は保つべき」と説きます。
このあたりの説明は、実際にこの本を読んで確かめてほしいです。
6、7章は、“そもそも〈世界〉はどうなっているか?”
『⑥〈生〉と〈死〉 「死」ってどういうこと?「生きる」って?』で、宮台さんが母親の最後をどう看取ったかを交えて語られています。先に言った『他者からの「承認」』が得られれば、満たされた「生」を送ることができます。そして、死に際したときにも、「自分を愛してくれていた人がいた」と、「死」を受け入れることができます。
これは〈社会〉の中のコミュニケーションに基づく関係での話です。一方で、〈世界〉の中で「名前の無い存在」として死んでいくということを語ります。
宮台さんはタイのプーケット島での旅行の際、高波の中モーターボートで出かけて行きました。10メートルを超える荒波のなかで、「落水して死ぬかも」というほどの体験でした。しかし、〈社会〉の範疇を超える大自然の中で「名前の無い存在」として死んでいく恐怖が安らかな気持ちに変わったといいます。
また、作家の開高健さんがベトナム戦争の時に新聞社の臨時特派員として従軍したエピソードを語ります。ゲリラの機銃掃射にあって、200名中の生き残った17名のうちの1人として生還し、ホテルに戻りベッドに倒れこんだときに「俺は生きている」と思ったといいます。「生きていて良かった」ではなく、全身で「生」を実感したと言えるかもしれません。
社会の中で「承認」されて生きることが不可欠なのは間違いありません。しかし、宮台さんは『人はよほどラッキーじゃない限り、〈社会〉の中で究極の安らぎを得られない』とも語ります。だから『〈世界〉という「〈社会〉の範疇を超えるもの」を感じる訓練をしなければいけない』のです。
『⑦〈自由〉への挑戦 本当の「自由」って手に入るのか?』では、自分自身を《歴史》の中でどう位置付けるか?を説きます。
歴史というと一人の偉大な人物が動かしたというようなイメージを持つかもしれませんが、そうではありません。
歴史学はifを考える学問です。前提AからA1という出来事が起こったとします。しかしifを考えるとA2という出来事も起き得たのです。しかし、前提Aからどんな出来事が起ころうと、その登場人物が変わるだけで現象としては同じです。前提Aからは必ず前提Bが導き出されます。そして、前提Bからは、B1が起こり得るし、B2も起こり得る。しかし、現象としては同じ。ということを繰り返していきます。
そのようにマクロで方向づけられている《歴史》というものと、個人やコミュニティなどミクロで方向づけられている〈歴史〉の2つがあることが分かります。
「抗えないマクロのレベルの《歴史》に、個々のミクロのレベルの〈歴史〉をどう位置付け、自分自身がどう振舞い、どう歴史を感じるか」が分かってくると、「本当の自由とは?」というのがほんの一瞬でもつかめるのです。それが大事なことなのだといいます。
まとめ
少し長い文章になってしまったかもしれませんが、この本のほんの一部にしかすぎません。しかし、エッセンスは何となく伝えられたのではないかと思います。
今回、この記事を書くにあたって、もう一度この本を読み直しましたが、最後に書いた「自分自身を《歴史》の中にどう位置付けるか」と言う事が、すごく重みをもって感じられました。
ここ数年は、はやり病に戦争、AIの急激な発達、フェイクニュースがはびこるなど、歴史が大きく動いているのを感じるからです。
このように考えると、やはり「14歳からの社会学」は10代20代の若者だけでなく、あらゆる人が読むべき本なのではないかと思いました。
「100分で名著 中井久夫スペシャル 」 (NHKテキスト)を読んで

精神疾患を持つ私が、中井久夫を読む理由
中井久夫は統合失調症の研究の第一人者で、1966年に精神科医としてのキャリアをスタートさせました。
当時、統合失調症は「精神分裂病」と呼ばれ、不治の病とされていましたが、中井の研究は統合失調症は治療可能な病気であることを示しました。
統合失調症の治療は一昔前までは、入院治療や投薬が主でしたが、中井がもっとも大切にしたのは「患者に寄り添う」という事です。それは、当時とても画期的なことでした。
その患者に寄り添う姿勢は、『「キュア(治療)」よりも「ケア」』と表現されます。患者に画一的な治療を施すよりも、患者と伴走し、病状を改善させていくのです。
この本はNHKのEテレで放送されている「100分で名著」のテキストです。番組の指南役は、時事問題やサブカルチャーなどの批評でもお馴染みの、精神科医の斎藤環さんです。
斎藤さんは大学院生時代に、バイト先の精神科病院の閉鎖病棟の劣悪な環境に絶望しかけたと言います。そんなときに、中井久夫の著作に出会って救われた気持だったと語っています。
実は私は精神疾患を患っていて、一時は統合失調症と診断を受けたこともありましたが、現在は就労して、なんとか生活することが出来ています。
私が精神疾患で、もっとも苦労したのが投薬治療です。精神科で処方される薬は、全てではないですが、副作用の強いものもあります。
しかし、薬の処方も自分に合ったものに変わったことで、就労につなげることもできました。
この本で中井久夫の事を知って、最初から彼の様な医師から治療を受けたかったなと思うことがあります。
しかし、今は彼の著作を読み、過去の自分を振り返ることで、他人に寄り添うことができるヒントを見つけられるかもしれないと思っています。「他人に寄り添う人間」になることが、自分自身を救うことにつながるのではないでしょうか。
紹介されている書籍の内容
このテキストで紹介されている5冊のうち、中井久夫という人物を知るための入門的な2冊を紹介したいと思います。
「最終講義」ー「心のうぶ毛」を守り育てるー
中井久夫の統合失調症研究の集大成です。書名の通り、神戸大学医学部を退職する際に行った、最終講義を書籍化したものです。
“研究の集大成”というと、難解なものを思い浮かべてしまいそうですが、専門的な内向きのものではなく、中井の臨床研究が平易な言葉で述べられています。
かつて、「精神分裂病」と呼ばれていた統合失調症は、その症状のインパクトが強いために、「いかにして“発症するか”?」ばかりが議論されていました。
しかし、中井は「分裂病はいかにして“寛解するか”?」をテーマとしました。(「寛解」とは、完全に治った「治癒」ではないが、症状が消失して安定した状態です)
寛解の過程を探るために重要だったのが、正に「患者に寄り添う姿勢」なのです。
中井の印象的な言葉に「心の生ぶ毛」という表現があります。
それは「人の心の柔らかい所」というニュアンスですが、彼は「“心の生ぶ毛”とは何か?」を定義せず、含みを持たせています。
このように曖昧にしたのは、精神科医療の画一的な部分からこぼれ落ちる「患者それぞれの状況や特性に応じた治療」を重視したため、あえて明確にしなかったようです。
また、その柔らかな語感は臨床医としての中井久夫の姿勢を端的に表していると思います。
『「キュア(治療)」よりも「ケア」』の視点は、セルフケアや対人関係のコミュニケーションにも役に立ちます。この本を読んでいると、ほっとする癒しのようなものを感じると思います。常に患者に寄り添ってきた中井の本質が詰まっている、入門書といえる一冊です。
「分裂病と人類」ー病は能力であるー
統合失調症は100人のうちに1人が発症する病気といわれています。中井は「すべての人は統合失調症を発病し得る」と言い、「人類史の中で統合失調症の気質が優位性を持った時代があったかもしれない」という大胆な仮説を提唱しました。
この書籍で中井は精神医学に留まらず、人文科学の知識を駆使して、その仮説を展開していきます。
農耕社会以前の、狩猟採集時代には統合失調症的な気質が役立っていたと中井は言います。厳しい大自然の中で生き抜くには、微かな変化を察知することが有利だからです。
中井はそれを「S親和者」という言葉で表現しました。(schizofrenia[英:統合失調症]の頭文字から取られている)
そして、農耕社会の時代に入ると、やがてS親和者は少数者となっていきます。なぜなら農耕社会では計画的に物事を進めることの方が重要になるからです。中井は計画性のある気質の人を「執着気質者」と呼びました。
古代、中世から近代へと時代が変化する中で、S親和者はさらに少数者へと押しやられます。しかし、変化する時代の中で、彼らが活躍する場面が、時としてあると中井は仮説を進めていきます。
ただし、S親和者を持ち上げるのではなく執着気質者と補完的な関係であったと説きます。そのようなフラットな視点は、中井の学者としての誠実さを感じさせます。
この本は、統合失調症という“スティグマの塊”のような病気に対する人々の見方を変える力を持っています。それは、中井の精神科医としての臨床経験をモチベーションとして書かれたからでしょう。
人文科学的な興味をそそる良書ですが、その根底には中井の患者を思いやり、寄り添う姿勢があると思います。その事を念頭において読んでいくと、この本がより味わい深いものになっていくと思います。
まとめ
私がこのテキストを購入した動機は、自分自身が一時期、統合失調症の診断を受けていた過去があったからです。
中井久夫の著作は、知的好奇心を刺激してくれる非常に優れたものです。語学の才能に長けていて翻訳が多数あり、名エッセイも多数残しています。彼の天才性を示すエピソードも多数あります。しかし、その根底には彼の”圧倒的な優しさ”があると思います。
彼の著作が、“圧倒的な優しさ”に裏付けられているからこそ、彼は歴史的な研究者であり、優れた臨床医なのだと思います。
私も、彼の優しさに裏付けられた“名著”から、生きるためのヒントを掴んでみたいと思っています。
以下、書籍のリンクです
書籍紹介:死の講義ー死んだらどうなるか、自分で決めなさい/橋爪大三郎

“自分が死ぬ”ことを考える
社会学者の橋爪大三郎さんによる「死の講義」、というと何だか恐ろしく思う人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。
この本の趣旨は「恐ろしいから、“死ぬ”ということを知りたい!」という気持ちに応えるものではなく、むしろ“よく生きる”ために、“死ぬ”ということを考えていくのです。
他人の死というものは見聞きして経験できます。一方、“自分が死ぬ”とは、経験する自分自身が”存在しなくなる"ということですから、当然、経験することはできません。こんなふうに考えると、何だかぽっかりと心の中に穴が開いたような“空恐ろしさ”がやってくるかもしれません。
健康で生きている間は、”死ぬ”ということは、ほとんど意識しません。特に昨今は、医療の進歩や核家族化などの理由で、人の死を目にする機会はかなり減りました。
しかし、生き物である限り、“死”というものは避けて通れません。そこで本書では、“死”というものを考える手がかりとして、世界の宗教が“死”をどう考えてきたかを学んでいきます。
なぜ、宗教なのか?
しかし、宗教に対して抵抗感を持つ人も多くいると思います。それでは、“死”を考えるために他の学問は役に立つのでしょうか?
まず、科学で“死”を考えてみます。
科学は、物事を観察・分析をして「世界はどのように成り立っているか?」を考える学問です。しかし、先ほど述べたように、“他人の死”と“自分の死”との違いは、“経験できるかできないか”の違いです。科学は“他人の死”を脳波や心拍などで、客観的に教えてくれますが、それは飽くまでも“他人の死”であり、“自分の死”を客観的に捉えることはできません。
では、哲学はどうでしょうか?
哲学は“死”についても考えてきた学問です。哲学は物事を深く洞察し、論理的に分析しますが、決して一つの明確な答えを出すものではありません。
特に、現代の社会は変化が激しく、多様化、複雑化しています。すると、「そういう考え方もあるけど、こういう考え方もあるね。」という具合に、様々な考え方に優劣をつけることができません。
すると、「決めることができなくなる」という問題が出てくるのです。しかし、“自分の死”という重要事項に正面から向き合うためには、答えを出さなければいけません。
宗教は人々に「世界をどう認識するか」という考え方を語ります。当然、人間のもっとも重大な関心事である“死とは一体何か?”についても、長い歴史の中で考えられてきました。長い年月、人類の社会の根幹となってきた宗教にこそ、「死」というものを考える知恵があるのです。
まとめ
“自分の死”について考えるために、宗教の事を知り、それを踏み台にして自分で考えて選択するのです。これが、この本の副題の「死んだらどうなるか、自分で決めなさい」の意味です。
“自分で決める”とはどういうことでしょうか?
他人から何かを決められて強制されることは、嫌々することであって、自発性や意欲は湧きません。同様に、自分で何も決められず右往左往することも、自信が持てず、前に進むことはできません。
しかし、「自分で選び、自分で決めて、自ら行動する」時には、自ずと内側から力が湧いてきます。
“死”というと、怖い、暗い、不吉...、などのイメージがついて回ります。しかし、そんな忌むべき“死”というものに、真正面から向き合ったとき、「生きる」ということの意味や意義が見えてくるのだと思います。
この本の、優しく語りかけるような文章は、読者に温かなメッセージを送ってくれているようです。
ぜひ、この本を読んでみて下さい。そこには、“良く生きるためのヒント”が詰まっています。
以下、書籍リンク
書籍紹介:復活の日/小松左京【著】

どんな本?この本を選んだ理由
日本を代表するSF作家の一人である小松左京の長編小説「復活の日」。原因不明の感染症が世界規模で拡大し、全人類の大半が死滅してしまうというストーリーです。
私がこの本を初めて読んだのは今から4年前の2020年、そう!コロナ禍の真っただ中の頃です!
4月から5月にかけての緊急事態宣言が解除されたあとに、2か月に1回開催される読書会が再開されたときの課題本が「復活の日」でした。
メンバーで次の読書会では、どんな本を選ぼうと相談した時は、やはり、パンデミックを扱ったものにしようとの意見で一致しました。
読書会は私の馴染みの古書店でおこなわれていましたが、課題本の候補をみんなでいくつか挙げていくなかで、SF小説でパンデミックを扱った「復活の日」が課題本に決定しました。
コロナ禍で再び注目された小説の代表格はアルベール・カミュの「ペスト」だと思いますが、あえて、そこを外したところが、なかなか通な選択だったと思います。(笑)
書店の店主は大学時代SF研究会に入っていたり、常連の参加者さんでSFに詳しい方がいたりするなどの影響で、この読書会ではSF小説が課題本になることが多いです。読書会の独自のカラーが選書に影響するというのはなかなか面白いと思います。
小説の中のリアリティのある描写
緻密なSF考証
「フィクションをどうもっともらしく見せるか?」、これは小説や映像作品を問わず、SF作品の避けて通れない課題だと思います。
その点、この小説のSF設定は実に緻密です。作品中の謎のウイルスは「MM-88」と呼ばれますが、これは生物兵器として原種を改良して開発されたものです。このウイルスの改良に携わった教授の同僚が、その特性とメカニズムを物語の中盤で説明しています。そして、そこに割かれている分量は、なんと15ページにわたっているのです!
説明の一部を抜粋します。「このファージの核酸を注射された細菌は、突然調子がくるっちまって、周囲から猛烈に栄養物を吸収する。細菌自体の染色体が変質されて、細菌自体が自分自身の働きでファージ核酸をつくりはじめるんです。」(P193~194)
長い説明のうちの一文に過ぎませんが、私は素人ながら「なるほど...、なんかありえそうだな…」とウイルスのメカニズムを理解しようと集中して読んだものです。この懸命に理解しようとする感覚は、コロナ禍の時にCOVID19の情報を得ようと、ニュースにかじりついていた時の感覚に近いものがあるかもしれないと思いました。
停止していくインフラ
人間がバタバタと亡くなり全人類の大半が死滅するのですから、当然、人間が運営しているインフラも次第に機能しなくなります。
また、ウイルスによる突然死により街中には人間の亡骸が溢れますが、それを荼毘に付す人もいません。生きている人間より、死んでいく人間の方が圧倒的に多いからです。この描写に関して、私は手塚治虫の戦時中の体験を描いた短編を思い出しました。空襲で亡くなった人々が土手や道端に放置されているのです。小松左京も戦時中に少年期を過ごしていますから、実感のこもったリアルな描写なのかもしれません。
切迫する政治
物語の中で、各国の政治家のパンデミックへの対応も描かれます。日本の内閣の臨時閣議では、具体的な数字を出し、政策判断によって社会のどのような動きが予想されるかなどの議論が展開されつつも、閣僚たちの不安で切迫した心情がひしひしと伝わってきます。
国際社会においては、パンデミックによって変化する各国のパワーバランスが描かれたり、アメリカにおける描写では、政治家だけでなく軍の動きも描かれるなど、リアリティのある展開をしていきます。
まとめ
小松左京は作家という枠に収まらない人物だったようです。当時は、言論人や学者、財界人などと積極的に交流し、議論を戦わせていたということです。広範囲で深い教養を備えた知識人としても認知されていたんですね。(Wikipediaの記述を参考にしました。小松左京 - Wikipedia)
そのような小松左京の博学な知識人との評価を、小説を読んだ後に知りました。「リアルな描写はそのような知識の裏付けによるものだったのか」と納得しました。
物語のリアリティが高いだけでなく、壮大な世界を描いたエンタメ小説としても読めて、わりととっつきやすい小説でもあると思います。それと同時に、小松左京の文明論がはさまれていたりと、盛りだくさんの内容になっています。
エンタメ作品と言っても、ある程度のリアリティを備えていなければ、物語に没入できません。それに、後世に語り継がれる作品というのは、何かしら心に引っかかるフックがあるからこそ、残っていくのだと思います。
そのフックが、小松左京の文明論にあらわれているヒューマニズム、つまり”人間という存在への信頼”なのだと思います。
高い娯楽性に加え、小松左京の強いメッセージが込められたこの作品を読んで、後悔することはまず無いと思います。このブログを読んで興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
以下、書籍リンク